記録する運動と資料(事実の確定)

1942年(昭和17年)空母ホーネットから発進したB25爆撃機16機が、京浜地帯を中心に本土を爆撃。しかしこの爆撃はのちの本格的な本土空爆につながるものではなく、アメリカ側の戦意高揚を主目的としていた。

2年後、1944年(昭和19年)6月16日未明、中国の成都基地発進のB29爆撃機75機のうち、47機が北九州を爆撃した。

前日15日の午後、南のサイパン島アメリカ軍が上陸を開始していた。B29の基地づくりのためのサイパン島攻略作戦に呼応して、インド・中国戦域のB29部隊が八幡製鉄所を目標として来襲した。これが、本格的な本土空爆の始まりである。

米国戦略爆撃調査団報告「B29部隊の対日戦略爆撃作戦」の記すところによれば、1945年3月10日から6月15日までの間、東京・川崎・横浜・名古屋・大阪・尼崎・神戸の5大都市地域に17回、延べ6960機が出撃して、焼夷弾・爆弾41592トンを投下し、264平方キロを破壊した。次いで中小都市焦土作戦に着手、6月17日から8月15日未明まで、延べ8014機が出撃して、58都市を目標に54184トンの焼夷弾・爆弾を投下し、197平方キロを焼け野原にした。

そして原爆による死者を含めて、民間人だけで56万人近くが犠牲になったと推定されている(1994年8月14日 東京新聞)。

空襲体験世代が社会的発言力を持つようになるには時間がかかった。1960年代半ば、インドシナ戦争へのアメリカ軍の介入が本格化し、北ベトナム爆撃(北爆)が続行され、反戦運動が盛り上がりをみせてからである。東京大空襲早乙女勝元氏、大阪大空襲の小田実氏、神戸大空襲の野坂昭如氏と代表的な人物が次々に名を連ね、1970年(昭和45年)8月、東京空襲を記録する会が生まれた。

 

参考

新装版「米軍資料 日本空襲の全容」マリアナ基地B29部隊    小山仁示 訳