「残そうとするもの」と「残るもの」に現れる過程を考える。

まず「独創性」を抑えることとしての「指示の遵守」が考えられる。そこにあるのは「規範の利用」と「独創性の発揮」である。たとえば「動画の仕事」と「原画」とを比べると、やはり動画の方が、原画がどういう動きを求めているのかを理解していないと、中をきちんと割れない。それは限定ではなく、寄り添う中で独創性が生きる証であり、それが「動き」というものの本質である。

カラヤン氏は、「音楽」という「動き」を、映像会社「テレモンディアル」を設立してまで残そうとした。彼の音楽は映像作品を目指し違和感をもって成功した。

古今亭志ん生氏の落語も、録音で「ビジュアル」を現代に喚起した。

これらはメディア利用の時代特性というよりも、記号論的な表象と交換という、現代に盛んな流通を生み出したのである。

 

参考

「アニメーターの社会学」   松永伸太朗 著

ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」   ウェルナー・ヒンク 著

「昭和の落語家群像」   清水一朗 著