管理社会vs主観的創造力

合理性(管理)は人から「考える」ことを奪う。「科学的管理法の原理」は、一方的な「受け身」を生む。労働者自身が管理者として管理すると、管理される側は自分をその管理に合わせ調整管理する。ここには積極的な本来の自己管理はない。ここから管理者の監視が生まれ、管理される側は主体を失い、あるいは虚偽・偽装を振る舞う。人の顔色を見て育つと、なりすましの能力もここから生まれる。裏を返せば、政治家(労働の党)が有権者の望みをかなえるポピュリズムがどこかおかしいのも、ここに根があるからだ。

「主観」はこうした没主体に慣らされた管理社会安住時代に改めて「考える能力」として評価される。私たちの主観以外に「外部」や「道徳」はあり得ない。それが近代的人間の唯一の「権威」である。あくまでも「自主的」であるとき「人間」である。「真実」は「自発的」に手にいれなければならない。誰かの手によって管理されているものではない。

現代の「統合失調症」は、自分との声との戦いの中で、何かが起きていることを見せてくれる。それは主観的に「考える患者」である。たいていの患者は働きたくてしかたない。それができないのでつらい。怠け者に見えないかとびくびくしている。管理された健常者のように、せっかく病気なんだから楽をしましょうという患者などいない。

労働において、「原作が作者不詳となる日まで」、まだ道のりは長い、とポストモダンは教える。原作を超える「剰余」がはじめて創造的労働であるからだ。そしてもはやそこには創造の刺激的「相続」があるだけで、誰が作者なのかなどという「所有権」には安住しない。「起源」という「嘘」に管理され続けるむなしい「模倣」行為から、「主観」を取り戻し、創造的な仕事ができるようになるまで、我々はまだまだ経済活動をリードしなければならない。

 

参考

「コンシアンスの系譜学」   エドワード・G・アンドリュー 著

統合失調症は癒える」   中井久夫 監修・解説

「映画原作派のためのアダプテーション入門」   波戸岡景太 著