自己像

国体のモデルは、戦後も神宮大会の連続性を保持する。地方財政を圧迫し、ジプシー選手を囲い、神格化された天皇杯のデキレースとなる。それはエリート選手主義というオリンピックに向かう。ここにあるのが天皇行幸・巡幸と国体の関係である。

上記のように考えられ、考えても良いのが、「自信」との関係である。健康増進とアマチュアリズムと国民へのスポーツの浸透にある「裏技」である。

 

「身体というモード」鷲田清一

自己は簡単に身体で他者や外部との境界を引いているのではない。自己は身体を自由に出たり入ったりすることを繰り返す「像」である。それゆえ「揺れる境界」は、モードの体系(ロラン・バルト氏)においてあらわれる。

つまり身体は常に加工されており、どの部位をとっても、何の手も加えられることなしに、そのまま放置されているところはほとんどないという事実である。

我々は「像」としての身体とたえず戯れ、「わたしはだれか?」を賭けている。つまり同一性をかける遊びである。像は壊れやすい。他人の怪訝そうな表情で私たちの同一性は簡単にぐらついてしまう。あるいは、他人に異性装(ジェンダー)を強制されるだけで、自分の同一性をあやうく失いそうになるのである。

 

参考

「モードと身体」    成美弘至 責任編集

国民体育大会の研究」   権学俊 著