パロディ(復活と拡散)

歴史上の「断罪」は「寛容の無」さから生まれ、歴史上に根強い悲惨を繰り返す。

その断罪の真の姿は、現代でも「検閲・隠蔽」されている。ゆえに未来に続く「歴史史料」は、時間経過の割には狭く、少ない。差別された結果、歴史破棄されている。

「復活」できない「古典」があってはならないし、断罪により「絞り込み」の歴史だけを「成果」としてはならない。

確かに罪の歴史的「コピー」は現代でも悪(不寛容のコピーそのもの)であるが、寛容による復活は、さまざまな「豊かさ」を示すこれからの道だ。

「くそ真面目」に世の中を、はじめから「道徳」で変えようとしても不寛容である。

まずパロディで馴れ親しんで「下地」を作ったほうが、より「市民権」を得られる可能性は高い。

問題は「白黒をつける」ことではなく、「境界の曖昧化」であり、「自由」という「流動性確保」が大切であるからだ。

「温かいパロデイ」にしてもらえれば人生は、寛容とともに「幸い」である。