アーティキュレーション(学校間接続)とその未来

時代を担う「期待すべき存在」(立志の青年)から、学校制度の成立と相まって「煩悶青年」(学生青年)が登場する。小・中・高・大まで、経験場の変わらぬ学校間接続は、自己成長(段階)ではなく、自己矛盾に気づかせる「対処すべき存在」へと、人を社会を変貌させた。これが書生でも学生でもなく、修養期でも反抗期でもない「青年」という「名」の「内なる近代化」の進展である。青年のエートスと学校関係者が説く「青年」では、修養成立を問う意義は違ってくる。自己形成が資本主義的エートスへの対応なら、それは適応と努力だけであろう。教育はこうして青年を囲い込み包囲した。

同じ明治の精神のなかにも孤立しない「日本のアウトサイダー」という人々もいた。「人の子」イエスのように。「無常という事」と「近代の超克」が生まれたのは、孔子の言葉を持ってすれば、「常」を見失ったからである。

音響理想の転換、あるいはバロック時代のサウンドスケープ(祝祭)の耳は、「器楽の独立」に始まり、声楽・器楽アンサンブル音楽を生み、組曲形式の自由を可能にした。そして鍵盤楽器の上での調律技法は、宗教改革とともに、聖像破壊(イコノスクラム)運動の遠因ともなった。こうして出来た「様々なる意匠」である「送り手の工夫」は、「天才」から、「受け手の自由」をも、現代に保障したのである。

 

参考

「明治の〈青年〉」立志・修養・煩悶    和崎光太郎 著

小林秀雄河上徹太郎」   坂本忠雄 著

バロック音楽を考える」   佐藤望 著