中庸(触れうるものとしての表面)

時間が時間であるためにかける時間のような時間は、いつも時間より遅れているか、時間よりも先になってしまっているような時間である。これは当然のことながらしくじる。フランツ・カフカ氏の語っているメシアのようなものだ。このメシアは救済すべきものが何もないときになってはじめて到着する。まるで何もなかったかのように。つまりこれは、予言でも記憶でも再会や告知でもない。

作るものがなにもなくて、なおかつ作るということはどういうことか。つまり表面を境目にして内側と外側がどっちにもひっくり返るということで、それは一つの物体とは全然違う意味のものになる。

実体としての像が失われれば、影としての像が記憶となり、そして忘却される。忘却を防ぐために像は造られる。このような像はイメージと意味を発する。こうして「実体としての像を見て影を偲ぶ」のである。しかしこの「反転」は内部と外部の著しい「接近」であり、無意識に外部も内部も持たない透明のようなガラスとなる。こうしてすべてがしかたなく形としての表面となる。外側からつくっていても、ある部分はむしろ物質の内側からつくられる、というのはそういう事だ。そして内部と外部が完全に合致することはないが、限りなく透明には近づくのである。

 

参考

「ニンファ その他のイメージ論」    ジョルジョ・アガンベン 著

「戸谷成雄 彫刻と言葉」1974ー2013    ヴァンジ彫刻庭園美術館