内容なき「一」

「全体性への尽きせぬ渇き」を持ちながら、なぜ人は「特異する主体」でしかありえないのか?

集合性(全体性)は平民=庶民で括られるから、事それ自体、「物自体」へと合理的に「断片化」しようとするのか?閉鎖系的理解からそれは自動的に導き出されるのか?その「疎外」そのものが対立化を招き、「物象化」へと断固移行させるのか?

本来集合性としての精神は、「契機ー局面」を見せるだけで、「主ー奴」の関係に置き、結果「闘争」させるものではない出来事である。

「対立集団」が「識別可能」になる過程を強化する「人間のおきて」は、永遠の渇きにすぎない。

「公共圏」の拡大は、社会的で生産的な多産性の「多」に対して、内容なき「一」(いち)が抵抗できないことによって護持されて行くべき道である。

 

参考

ヘーゲル変奏』「精神の現象学」をめぐる11章    フレドリック・ジェイムソン 著