読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

潜勢力

ゲーデルの完全性定理は,集合を排除し、全称・特称の削除により、数理論理学を成功させた。しかし日常論理は規約主義ではないから、「枝分かれ」する。

人の同一性は、心理的連続性と時空的連続性にほかならないが、それが複製に関わる時は、枝分かれする。人の同一性は、数的な同一性ではないが、数的な同一性である。これは絶対矛盾の自己同一である。「以前とは別人だ」という罰や期待や後悔と結びついた同一性もあり、「赤ちゃんの頃と今の写真」は、自分と数的に異なる同一の写真である。

*空っぽの世界Wよりも多くのものがあるのはなぜか?

*存在しなかったものが存在するのはなぜか?

つまり「潜勢力」は「偶然」として「やさしい」のではないか?「可能が可能であったところのもの」を再生医療も探している。

「子どもと死」というテーマは、圧倒的に「子どもを亡くした大人たち」の話だ。「子どもの頃」ではない。「わが子に先立たれた時」、大人たちは死をどう感じたか。

夏目漱石氏はこう感じた。「何だか嘘のような気がする」と記し、「どうも不思議だ」と繰り返す。またこうも言う。「生きている時はほかの子よりも大切だとも思わなかったが、死んでみるとあれが一番可愛い様に思う」と。「なぜあの子で、別の子ではないのか」と。「特別」な思いは際立つ悲しみだ。文学ではそれが繰り返された。

マリノフスキー報告によれば、島で子どもは霊の生まれ変わりと思われたが、島の人は「人の過去の人生」には関心を持たないから、因果応報的な「業(カルマ)」の継承イメージはなく、あくまでそれは氏族の連続性を確認することであった。つまりこの社会においては、生理学的な父子関係より、社会的な父子関係が重視された。妊娠に関わった父親ではなく、社会的な父の役割を取る父親が極めて重要な意味を持っていたのである。

「なぜあなたたちの子供なのか」

「本当は私を望んでいなかったのか」

この疑問に「社会的父親」ならこう答える。

偶然を必然化することは社会にある、ある種のやさしさである。自己自身に自己自身を交付する。親も子もこうして自分を偶然から引き受けるのだ。自分に対し「自ら」をこうして解放するのである。

 

 参考

「新・論理考究」  本橋信義 著

形而上学レッスン」  アール・コニー+セオドア・サイダー 著

「誕生のインファンティア」   西平直 著