公的と私的

本書は、フーコー氏やデリダ氏を明らかに超えて秀逸である。

フランス語から日本語への落とし込みは、今後より重要になる。日本語でより深く考えることで、これから先が十分期待できる。日本語は文化とともに秀逸な思考概念装置であるからだ。

それは「ありそうでなさそうな疑問」から始まる。通常、「ひたすら他人から権力を振るわれるばかりで、自分からは他人に対し権力を振るうことはない」という文言はある意味外れている。権力を振るうと言う事は、相手が自分の意図に従ってくれることが必要であるが、当然それは失敗の可能性を意味する。相手が服するほど相手を読める人は少ないから、「権力を振るう」ことよりも「権力に服する」ことのほうが圧倒的に大多数である。(権力者も、人をだます人も、同様に少ない理由はここにある)

ゆえにここには、公的と私的のすり替えが必要だ。公的にすれば「権力を振るう」(服従)させることが「大多数」にできる。しかし実際は、服従に従事していることが大多数により、人は私的に住んでいるという逆説も見えてくる。

これは、現実感覚が「絵空事」である私的な大多数の感想であることを暴露する。権力が及ぶためには現代、公的に用いられ、うまくコントロールすることにある。権力のあるべき姿はこれが正常である。しかし歴史は「私的権力」を廃絶するべく「権力」をめざした。これは「捩れ」である。(「才能と悪意」と「人柄と仮面」の錯綜)

本書は言う。つまり公的な事物と私的な事物の区別を、与えられた「自然」として受け入れるのは危険であると。これは明らかに「社会的構築物」である。私的な事物が公的な事物による「二次構築物」に還元されてしまうと、公的と私的の区別や差異化がなくなってしまうからで、それは不満の糸口を考察する糸口をすら見失ってしまうからである。

 

参考

「政治の理論」リベラルな共和主義のために   稲葉振一郎 著