偶有性と現代日本

偶有性において「謝罪」と「公」と「私利私欲」のねじれを現代に射影する。

東浩紀氏の解説「政治のなかの文学の場所」は、加藤典洋の「偶有性」の本質を特に理解している。

 

アイデンティティの分裂は戦後、近隣諸国との関係でもねじれている。もはや単純な謝罪や事実確認で解きほぐせるものではない。いまやこじれた夫婦や友人関係のように、ある人に謝罪することが、別の人を激怒させ、あらたな事実の確認が別の疑いを生み出す。そのような悪循環に陥っている。被害者の心は論理では癒えないし、加害者の猜疑心も論理では解体できない。」

 

こうして日本の政治は私利私欲の徹底が公に通じるという不可解な論理を構築する。秘密を持ち、罪を持ち続けながらも、簡単に謝罪してのけることが「公」に通じるという逆理を公然と実行し公的になれるのである。ポピュリズムの本質もここにある。つまり自分のかわりに他者を謝罪させ、自分は「公」を得て、利益誘導を果たすのである。

 

戦後人々は、「なぜあの人が死に、それが自分ではなかったのか」と自問をはじめる。しかしそこにあるのは偶有性である。その自問は「意味づけされなさ」でありながらも「意味づけ」がせまり、生き残ったことが己を苦しめるのである。しかしこの問いに意味はない。「何の因果関係もなく、予期しないことが起こるさま」に、ここで即座に謝罪することは、何に謝罪することになるのか?謝罪すれば「公」という共同体の倫理に答えたことになるのか?

 

現代の日本の共同体論はこの「歪んだ公」という謝罪に市民を落とし込む。市民同士の争いも気づかずにそれに巻き込まれて「公」の顔をするのである。身勝手だとか、薄情だとか、他の人間への感謝の気持ちを忘れているとか。しかしその因果を強く主張する者がいれば、その裏には私利私欲の肯定がある。現実には、偶有性という「近接」しかそこにはないからだ。他者を倫理的言説で犠牲にし、自己を公と正当化し、私利私欲を隠し持つ、この罪の告白の強要はねじ曲がっている公である。

 

こうして、人々の交流感情は絶たれ、世界をも失っているのが、今の「公」のなかの自己(市民)である。

 

キーワード:公 謝罪 私利私欲 共同体 犠牲

 

参考

講談社文芸文庫 「戦後的思考」   加藤典洋 著