「兆し」はどこから来るのか

いつから技術は「時間」に寄与するものとなったのか。

本来「時間の短縮」は、生産者にも消費者にも利用者にも、無関係である。

逆に「時は短い」、人生をそう感じさせるものが技術である。

時を忘れるくらい夢中になることは、時と場所など選ばない。

「物事に打ち込んでいる時」が、特別な人間の状況を表わす。

仕事のために、打ち込むようになる、時間が足りなくなる。それこそ「技術が考えることと同じ」ありで、人間の「すべて」を象徴しているからだ。

「時短」を待ち望んでいるようでは、飽きっぽさと不真面目さと短気を象徴するようで、打ち込んではいない。だから働くことの満足が報酬になく、時短が労働達成感を薄いものにするのである。

毎日という繰り返しは「機械」のような「コピー」ではなく、この習慣的行為に「発見」と「飛躍」の契機が萌すのを、本物は見逃さない。

練達とは、平凡な日々の時短ではなく、「兆し」を予感しているものだからだ。

 

参考

クラフツマン」作ることは考えることである    リチャード・セネット 著