読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

VR開講

この博士論文は秀逸である。

「リアル」とは「自由」ではなく、むしろ「不自由」を感じさせるものだ。それは「高等」であるからより安全だ。そしてそれは「配置に語らせる」ということだ。

つまりVR(バーチャルリアリティ)とは、これからますます広がる自由を感じさせるものではなく、一つの高尚な警告(不自由の覚醒)なのだ。それは身体の不自由を彷彿させる体験をより求め、刺激的に与えることになる。

ではなぜ人はわざわざそんなものを求めるのか?自由を謳歌すればいいではないかと。しかしこの不可解な謎は「サスペンス」という心理の探求にある。VRも今後逆説的だが「不自由」にこそ最大限ありがたみを感じるようになるはずだ。

自由の幻想に対しサスペンスは「先行」している。それは「事前」に準備された「安全」だからだ。受動性の自由万能に対し、サスペンスは「身体感覚」を通し恐怖させる。それが「媒介された自由」を強く再意識化させてくれる。

自由な移動はイメージ先行であるが、テクノロジーが喚起させる恐怖の条件は「予期的態度の欠如」である。不自由の経験は、この「覚醒の両義性」だ。そこに「居ない」こととそこに「ある」こと。時間進行の不可逆性は機械装置に嵌め込まれているからだ。サスペンスはこの自動性への恐怖と機械配置へのはじめての「覚醒」である。シミュレーションというVRもこの事前の準備だ。

 

ポール・ヴァレリー氏は言う。

「道具は意識から消えていく傾向がある。その作動は自動的になったと日常よく言われる。ここから引き出すべきは次のような新たな方程式だ。すなわち、意識は事故があってはじめて目覚めるというものだ」

 

今後VRは自由を謳歌するかもしれないが、それは日常の無意識に対し、サスペンスとして「不自由」を自動制御状態から目覚めさせる鋭い違和感を覚醒させるリアルを内包しながら、「安心・安全」を身体感覚として、歴史的意味を増々自覚表現していくであろう。

つまり「情報技術革命」は、自由と不自由を「往来」しながらより感覚を鋭くして、安定した未来を目指すという両義性を、それ自身に内包(内蔵)しているのである。

 

 参考

「サスペンス映画史」  三浦哲哉 著