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歴史におけるデカルト派と近代化の礎

デカルト派は二元論ではない。プロティノス氏の流れを汲むネオ・プラトニズム(一元論)である。「我思う、故に我あり」で、精神の延長に身体が位置づけられている意味と理由は、精神は自己の身体と世界や他者を同一に見るという視点である。決して精神が自己の身体だけを見て、自己が世界(物質)や他者を見下す別物(道具存在)として認識する二元論ではない。もし二元論を取ると、自己の身体と精神は世界に立ちはだかれ、自由と自由な創造的精神を奪われるものとなるからだ。あくまでデカルト派は「我思う」において、「見たいものを見る」エゴコギトではなく、蹂躙されない自由な創造力を世界に措定したのである。

方法論で、流出としての一元論をとることは、すべてが「同等」であるという規則である。ここから近代科学が自己から生まれる間主観性(対話篇)という創造性を発見するのである。自己の見たいものだけをみているようでは、世界をただ自己のために消費するだけであり、それは敵対を招く合理論になるからだ。

ゆえにしばしば哲学は「戦場」で見つかっているのである。

 

参考

省察」「方法序説」「哲学原理」「精神指導の規則」「情念論」     ルネ・デカルト 著