租税と遊芸

「時代」が本書にはある。内面の形成と表現力、そして再安定化へのきざしである。

 

信じるものがあると言うだけで、生きる指針になる。嘘でもいいが、それは強いよりどころかもしれない。信仰は害にもなるが糧にもなるというのが現代人の思いかもしれないからだ。物も言葉も溢れかえっている時代に生きる者だからこそ、「自分で信じるものをつくる」ことは必要だ。

 

昔は畏怖するものが多かったゆえに、生きることに真摯になり、謙虚であった。ゆえに仏や神も身近にいた。ましてや争いや飢えの中で緊張を強いられていた末法の時代には、恐怖や不安の感情は余計に増した。

 

だから時代が進み、権力組織が「租税」というものを政治的に生み出すと、いままで境界のない穏やかであった身分や生活は一変する。確かに租税は、払えるものには大きな安定を与えた。しかしそこから、払えないはじき出される者も出てくると、優越差から逆に大きな差別が生まれた。穏やかな境界のない生活は、こうして自由を奪われた者の時代となって現われたのである。

 

一遍はそんな時代に国家支配の狭間に生き残った古い神々に祈った。そしてそれはその隙間の管理者として芸能民集団や人形浄瑠璃や歌舞伎、近松西鶴などの文藝創造期へとつながって行く。公民的な社会から逸脱して生きた人々の生を活気づかせたことの端は、踊り念仏と遊芸民として今にある。

 

川端康成氏も、この世から捨てられようとしていた人々と出会い、自らの境遇を生きたのである。

 

参考

一遍上人と遊行の旅」   上田薫  佐藤洋二郎  著