統覚

本書「あとがき」のなかで恒川邦夫氏は言う。

ヴァレリー氏が自分で自分に仮構した<山>は非常に厳しかった。青年が乗り越えていく山は、立ちはだかる山ではなく、本質的に「主観的」なものである。誰の目にも見える山が立ちはだかるのではなく、青年がみずからの精神のなかにつくり出すものである。

そしてヴァレリー氏はダ・ヴィンチ氏を選んだ。「あらゆるジャンルに渡って優れた人」、それは無意識に彼の主観が引きつけ、彼から生涯離れない。最初はダ・ヴィンチ氏の多彩・多様性を普通の人の「類似性」から探り、基礎づけようとした。しかし最終的にヴァレリー氏は「先人たちの仕事」を「自分の問題」として「再提起」する広い道からダ・ヴィンチ氏の思考に迫る。あらゆる「思考の意図」は我々のうちにある。ダ・ヴィンチ氏もヴァレリー氏も「広く」先人に学んだに違いない。「広さの射程」(後継者の意識)が普通の人とは違っただけだ。それは我々自身の実質を介して想像し、形成するものだからだ。一つの心像が示唆するものは、我々自身の「思考始動」以外のなにものでもない。この無条件性と自発性こそ「私のもの」だ。彼らの興味はその個人的「才能」ではなく、より広がる「後継者」の道を選んだのである。

世界は「脳内現象」かもしれない。しかし「虚無」に落ちて行こうとする「世界」を受け止めなかったなら、我々の「内部」に映しだされている「巨大な統一的心象と世界」との間でボールの投げ合いをやめてしまったら、この世界は存在しないであろう。

意志は体の「先験的統覚」であり、体は意志の「後験的意識」である。ゆえに我々はすべての統覚を必然的に「我々の問題」として広く「先人」に学びたくなるのである。

 

参考

レオナルド・ダ・ヴィンチ論 全三篇」  ポール・ヴァレリー 著