公案

「プロセスを可視化する」こと、そこに「実現」行為がある。

姿のない神をどう表わすか?そこで神を人の姿で表わす言い訳が日本に登場する。

昔から、神は意思そのものは示されるが、神の姿は見てはならないものだから、その姿を造形することはできない。しかし神は「物」に憑く。そこで神が籠る山や滝や岩など、人目に触れないところに神が憑依したとされる鏡や剣や御幣などが、ご神体として開帳なしに礼拝された。

しかし仏教伝来によりその事情は一変する。目に見える仏像が表われては、目に見えないものは信仰として勝ち目がない。そこで考えついたのが、神自身が仏道に入りたいと願う神託である。仏法に帰依する行為として「神御像」の造立を可能にしたのである。ならば仏法に帰依したいとする僧侶の姿でも「菩薩」として表わせることになることから、信仰「行為」そのものも可視化されたのである。

ここで重要なことは、すでに「菩薩」となっていることと、「菩薩を目指す」という事の間に違いはなく、「同じ」永久を目指すということと同じであると解釈されたことである。

つまり可視化とは、「すでに成っている事」と「それに成りたいと望み修行すること」が同じレベルにおかれたことにある。こうしてこの「可視化のプロセス」は名人とその修行を目指すことを理念として、永久の修行として統一したのである。こうして人は学習を「公案」したのである。

 

参考

図像学入門」疑問符で読む日本美術   山本陽子 著