テクストと演劇

歴史が解った。キーワードは「テクスト」であった。

 

古代ギリシャ演劇の「コロス」が最も重要だったのだ。わざわざテクストを空間に引きずり出す必要はなかった。テクストはテクストで、空間など必要ではなかったはずだ。しかしあえて劇空間に引きずりだすことで多くが生まれたのだ。

 

吟唱者は、俳優をからくり人形かコメディアンとして扱い、驚きと解釈を加えさせる「心理」というものを人間に展開したのである。つまり演劇には身体はなく、「文体」だけが可視化されていたのである。これは明らかな「虚構」の出現であり、この虚構から「解釈」という心理主義が始まったのである。テクストは読まれるものではなく、「読み解くもの」、心理を読むものとして可視化された。しかしこのプロセスこそ人間の知には重要だったのである。

 

ここからテクストは舞台を通し、「類型化されない登場人物」を生み出す。ロラン・バルト氏が「テクスト」論のなかで「パフォーマンス」というモードを語った理由はここにある。ここから「不条理の言葉」という演劇が生まれ来る。つまり「解釈の拒否」という拡張である。不条理は、今まで以上の事を示せる装置として、それを舞台に上げたのである。もともとテクストでしかなかった舞台を、空虚な「空間」として発見したのである。ここから「劇場を捨て、街に出よ」というマルセル・デュシャン氏の逆説的再生としての歴史が始まる。舞台は再生であることをやめた。歴史となったのである。

 

参考

「演出家の誕生」演劇の近代とその変遷  川島健 著