人的育成と進化の外部

ニーチェ氏の「超人」、ミシェル・フーコー氏の「生成政治」から、ダーウイン氏の「種の起源」をブレークスルーする。

 

ダーウインの目標の一つは、人為淘汰によって家畜や栽培植物の進化をつくりだす育種家の努力と、自然淘汰を通じて生物を形づくる自然のたえざる作用のあいだの類似性(アナロジー)を明らかにすることであった。

 

しかし人間が育成した「優良」は、はたして自然に戻れるのだろうか。自然の中でも優良足りえるのだろうか。人間のつくる優良はその時代の趣味や愛好に近い。ゆえにその愛好の期間も短く、歴史や淘汰に連なる系と正しくは接続できない弱さがある。「上り終えたらハシゴを捨てよ」というヴィトゲンシュタインの現代的箴言と同じくらい、人間には長期的な連続性が感じられない。

 

人間は人間の「優生学」を求める反面、自然を支配しようとしてきた。この矛盾により、人間の中の優良は、たぶん人間間だけのもので、自然に淘汰されたものではなく、むしろ差別化されたものであるから、その外部性は弱くなった。自然もまた淘汰ではなく支配(産業革命)や合理性(経済)で断続的に愛好者の手に落ちたため、その進化の外部は、系ではなく不透明となった。

 

 こうして現在、人為的育成は「生成政治」の危うさと弱さを見せ、ニーチェのような外部性での強さを系で新たに示そうとする「超人」を理解できないでいる。

 

参考

『21世紀に読む「種の起源」』  デイヴィッド・N・レズニック 著