クラウドの本質

本書から学べるものは、コンピュータ(ハード)からネット企業(サービス業)への産業変換だけではない。電力の歴史とケイタイの歴史をも考えさせる示唆に富む。

 

クラウド・コンピューティングを正しく理解するには、仮想コンピュータ(分散)やグリッド・コンピューティング(個)から考えることではなく、「集中化と分散化」という限りない「歴史の繰り返し」というカテゴリー(妙)で考えることだ。歴史はリニア(直線)としての成長を示すものではなく、その繰り返しの先にある「剰余」(余り)にある。

 

電力もスマホも「エリア」の問題から剰余を生み出せない「ハード」でいる。それはインドのケイタイ事情と同じである。この問題はハードの余剰(ガラパゴス化)だけを生み出した。本来余剰は「ソフト」と言う「サービス業態」から生み出されなければならない。必然的に1次産業・2次産業・3次産業へと歴史は進むからだ。それは最終的にインフラである。

 

つまりこの集中化と分散化は「パイ」ではなく、「余剰」をめぐっての歴史だったのである。「余り」こそ「ムダ」ではなく正しく「社会分配」されなければならないからだ。標準化も独占と紙一重である現代、それを乗り越えるのは正しい歴史認識であった。

 

しかし集中環境のメインフレーム時代から、分散化への方向に向かうには、「余剰」を連携する技術に難しいものがあった。GUIだけはビジュアル的に大きな飛躍をむかえることができたが、社会化できる合理的なサービスの概念にまではまだ行きつけなかった。

 

現代の再生可能エネルギー環境負荷低減)も分散化の理念上にはあるが、それは「売電」自由による再エリア化であり、社会的余剰の有効利用ではない。そこにはMITのマーティン・リナード氏らの「エラー忘却型コンピューティング(常に利用可能という高可用性)のサービス理念が先行事由として明らかにないからだ。ゆえにこのハードの乱立は逆に環境コントロールをより難しくしている。

 

参考

クラウドの衝撃」  城田真琴 著