ロボット工学と量子コンピュータの「主体」

主体性を「脱中心化」「脱領土化」という言葉に置き換えて考える。

 

それはいささか「共生」における「環境」のとらえ方と似ている。ゆえに0と1を同時に扱うのである(知の本質)。自己と他者は「共生」ゆえに、存在であるとともに無である。その「発現」は自己の中のもう一人の他者の反省的定位である自己意識の瞬間にすぎないからだ。

 

サルトル氏は「意識とはその定義からして自己意識」ではあるが、ゆえに「非」反省的自己意識であるという。反省的意識は「間欠的」であって、反省的瞬間と反省的瞬間には無意識と言う「不条理」がある。換言すれば意識とは対象に向けられる無意識であり、直接の自己意識ではない。つまり意識は主体ではないのである。こうして「地理学」は創り直される。

 

もし反省的自己意識があるとすれば、それは無意識という自己創案が「投影」している自分を反省的に「自己も含めて」見る「外部」を創造した時だけである(他者の視点の獲得)。人は常に何かを「投影」している「関係」にあるからだ。

 

「意識とは自己ではない何ものかについての意識」ではあるが、投影世界が「物質的世界」を自己「内部の外在性」としている以上、「自己意識」の構造は常に「物性」との「共犯関係」(共存環境の発見)にある。つまり行動の対象を措定的に捉えるためには、行動における自己自身を措定的に捉えられない仕組みとしているからだ。それゆえ意識は、反省という地図の断片的塗り替え(内在平面)ではなく、「立体的」な物性(仮想)として「あえて」捉えたのである(多面体論)。「自己の超越」とはこの歴史的進化の「人間特性」の獲得である。つまり意識は常に自己から逃れ去る。そこにある自己変容はゆえに、決して意志や意図の次元ではない流れなのである(矛盾に見える人間本姓)。

 

つまり外在性を媒介とする内面性は、「浄化的反省」の無限反復という「自由」なのである。存在は絶えず自己主張しない無を志向するからこそ「知」が開けるという逆説的機構を持ったのである。

 

参考

「主体性とは何か?」  ジャン=ポール・サルトル 著

「公共インフラ再生戦略2016年版」PPP/PFI徹底ガイド  監修:東洋大学PPP研究センター