点(軸)のパラドクスを「迂回」する超越的「一期一会」について。あるいは「すべての前線で回す」ということについての試論。

 

「全回に代わる一回限り」という言葉は、視覚の源泉であり、「脱中心化」するに十分であった。回すということは、迂回すること、周回する、に添って回ること、を意味し、到達不可能な中心の方向に向かう回帰であった。

 

この一期一会は、自分で決定する前に、振り返る前に、早くも防御する、超越的能動性(かつ受動)であった。そしてこの回転(エネルギー)は「代替不可能」な、そして「不可逆的」な「乖離」(私そのもの)だったからだ。

 

これは眼の点(盲点)から組織された。点に集約しようとするものに「回転」写像し、一回性を与えるこの仕組みを、われわれは「エネルギー」と呼んだ。

これは眼の委任であり、視覚の授権であった。想起と投企の「実存」はこの時代の「量子」過程にあらわれた「装置」である。

 

参考

「言葉を撮る」デリダ/映画/自伝  ジャック・デリダ+サファー・ファティ 著