「健在」とは何か

誤解はお互いを切磋琢磨させる。時代がすべてを終わらせるわけではなく、より深めるための「時間経過」である場合も多い。

 

デカルトがカントの登場で終焉したわけではなく、マルクスヘーゲルの対極にあったわけでもないことは、西田幾多郎氏と三木清氏の思想史的関係であらためて理解できる。

 

西田幾多郎氏の「矛盾的自己同一」も矛盾を越えて矛盾を包むものであれば、場所的自己同一と同義である。それはヘーゲルの絶対現在として弁証法を包むという意義を有する。

 

三木清氏はレトリック(修辞学)を、「人と人の間」を現象学や解釈学以上に社会的意義のあるものとして補完しようとする。「説得の技術」は、「実践」としての「公共性形成」を持つからである。

 

どちらも、体験・表現・理解を生の契機として時代に踏み込んだことは事実である。いまだどちらも「読解」に耐え得るからだ。つまりレトリックとして今もなお「健在」なのである。

 

 

参考

人為と自然」三木清の思想史的研究  津田雅夫 著

「種々の哲学に対する 私の立場」  西田幾多郎論文選