映像の修辞学(柳田國男)

『私たちの終戦は、映像のない終戦でした』

        四方田犬彦・平沢剛編「大島渚著作集2 敗者は映像をもたず」

敗者は映像を持たない。戦争においては、勝っている時だけ映像を持つことができるのである。

 

「やまと」とは、山(やま)と人(と)の造語である。人は山に住む神々と見晴らしの効かない雑木のなかで、孤独になりながら考えてきたのである。平地ではないから他者を見晴らすことはできないが、「自分自身」を見つめることは充分できたのである。

 

「かなしみ」とは「あわれみ」である。仏教はそこに「自己」ではなく「他者」を見出してきたのである。それが「悲の器」としての他者へのあわれみある自己である。

 

歴史にはしばしば「己」だけで「他者」が写っていない映像がいまだある。

 

 

参考

『現代史のリテラシー書物の宇宙   佐藤卓己 著

『「やまとごころ」とは何か』日本文化の深層   田中英道 著

『「かなしみ」の哲学』日本精神史の源をさぐる  竹内整一 著