知識学と公共接続

フィヒテ」を読む、とは、孤独な読書には向かない。

そのテクストは「揮発性」ゆえに、固定化した内容は無く、公共にともされ、議論されるべきものとなる。

フィヒテ氏の「障害」とは自我がその基礎をなし、なによりもまず客観の世界を(反)定立する機縁を与える。その際客観が依拠するのは、「限界づけ」が原初的契機となり、かつ自我がその契機を客観化し把握することにある。障害は「自我の限界経験」として理解されるのである。

そして自我は限定することにおいて自らの実働の末端に衝突するのである。つまり自我に対し、自我があるものと衝突することが、あるものによって障害を受けていることへと対象化されるのである。だから、自我が引き出され引き立つようでは、非我による前進する自己改善の「自由」な道は開かれない。

ゆえにこの形式は、実存経由プラグマティズムであることを言い当てる。

つまり知は「実践知」として内的な「観念的」行為に立脚し、かつ外的な「実行的」行為へと整序されることで、公共接続されるがゆえに、無理なくカント氏の道徳哲学へと公共接続されるのである。

 

参考

フィヒテを読む」  ギュンター・ツェラー 著