価値形態論再考

価値形態の等式は左右対称ではない。この相対的価値形態は「承認欲求」を含んだ社会心理学なので、明確には見えないが非対称である。

「私」は一人では自分が何者なのか、自分の価値を確信できない。他者に承認されて初めて自分の価値を知る。それが他者と自己の等価形態であるが、「私」はやがて自分を認めてくれる他者を「崇拝」し始める。それが他者による支配(マインドコントロール)の始まりである。貨幣は、この「他者」のように商品(の所有者)を支配し大きくなる。

これは社会的排除を生み出してきた似非能力論(恣意的価値)である。これは最終的に、権力闘争のように身内をもやがて排除する疑念に陥る。いま社会に必要なのは公益を包摂できるような共有である。

 

参考

朝日新聞2017年4月16日 古典百名山 大沢真幸が読むNO2 カール・マルクス資本論

「英国チャリティ」その変容と日本への示唆   (公財)公益法人協会 編

考え方

数学や物理学の天才とノーベル賞受賞者の違いはたぶん考え方の違いだ。

 

1、局所性質原理(分けたいけど分けきれない場合、対象となる「モノ・コト」の一部分を偏らせることで解決する)

2、非対称性原理(特性や濃度に偏りをつけることが難しい場合には、形や数に偏りを持たせ、大きいところと小さいところに分けてみることにより解決する)

 

局所性質原理は「寄せる」ことで、非対称性原理は「ずらす」ことである。

差延」は重要な概念である。

 

参考

「トリーズ発明原理40」あらゆる問題解決に使える科学的思考支援ツール    高木芳徳 著

女性の登場(シェイクスピアの現代性)

本書は秀逸である。

イギリス演劇が「パトロン」を得てかつ、公衆劇場や巡業の「商売化」が許されたのは、宮廷での上演なための「リハーサル」という名目が立てられたからである。「文盲の時代」と「高等教育改革」は当時、新奇過ぎて職口のない才能を取り込んで行く。

しかしキリスト教の文盲打破政策(聖書普及)を持ってしても、イギリスだけは舞台に「女優」を立たせることができず少年俳優が女役を演じていた。このフィクションは現代的にも性倒錯をもたらすが、支配階級と大衆文化の融合に大きく寄与する。

シェイクスピアが「大衆文化」という仕掛けを企てなければならなかったのは、女優を立てられなかったからである。本物の女性の思いを「少年俳優」で観客に説得力を持って舞台で表象させるためには、大衆文化を導入するしかなかったのである。ポピュラーとは「普通の人」であり、それがエリート文化を大衆の娯楽をして、融和を図ったのである。

少年俳優が演じる「偽物」の女性が「平等」と大衆文化へのエクリチュールとして開いた瞬間である。エリート文化の登場人物が抱える問題をこの大衆文化の表現を用いた魅力的な女性が、文化の境界線を無くしていったのである。支配層の文化に疑問を投げかける「役割」はこうして誕生した。

ハムレットは大衆が「死」においては誰も違いがないこと示した。墓堀人の歌「メメント・モリ」は少年俳優が演じる「オフィーリアとガートルード」の表象である。こうして複雑で多面的な女性をはじめて歴史に加えることができたのである。

 

参考

シェイクスピア劇の〈女〉たち」少年俳優とエリザベス朝の大衆文化   楠明子 著

解離

フォークロアの本質を知っている者はそれを危惧する。戦時下も占領下も政治と民俗学は国策科学として成立するからだ。

本来民俗学は「公民の民俗学」・「経世済民の学」であった。しかしそれを掘り起こしにおいて失敗した場合、「狩猟伝承論」の「異常心理」へと偏向されてきた。

狩猟はスリルと興奮を与えた。獲物は腹を割かれキモ(内蔵)は山の神に感謝と次の発見を祈る儀礼を持って捧げられていた。内臓には魂や精神が宿ると考えられていたからだ。ここから人の「切腹の話」へ、「生命線」は深層されてゆく。内臓の抽象化は、内臓器の露呈という三島由紀夫氏の「切腹」のような奇に思いつくのである。

内臓を露呈するということはよく「奇譚クラブ」等の猟奇的雑誌の先駆に扱われた。サブカルチャーを持って民俗学を語ることは現代思想や社会科学でもまだ「学問」のような体裁で語られているが、このブームには「ネット右翼」等の危険が誕生することを本書も十分警戒している。

その後「内臓露呈の神事」を伴わない儀式化はやがて「刑罰」へとなってゆく。ここら辺の記述は、ミシェル・フーコー氏の「生政治」の着目点に近い。狂気⇒監視・処罰⇒生政治の流れである。つまり人の「心」が、ある種の「精神」になると、それは途端に理解しがたくなるのである。

つまり「臨床医学の誕生」には、神話や語りの始まりにまず「異常心理」があり、「変態心理学」的民俗学への道しかなくなっていたことを世界戦場は示す。

ここではじめて現代の異常心理である殺生が戦争の残酷・残虐と結びつくのである。この時点で生きるための動物行動学の集団とは完全に「解離」する。

これは公民の民俗学でも経世済民の学でもない、「たたかいの原像」であり、贈与を伴わない「戦争の民俗学」(墓場の民俗学)である。つまり「頽廃」にいたるこの掘り起こし(利用)が、「ゾンビ哲学」(妖怪・怪物)を生んだムーブメントと考えられるのである。

 

キーワード:反知性主義 ヘイトスピーチ ネット右翼

 

参考

「殺生と戦争の民俗学柳田國男千葉徳爾    大塚英志 著

 

存在優位の原則

道徳に対する「存在」の優位は原則である。

「当為」は存在に「内在」しているからだ。

生活の形式に組み込まれた倫理的命令はすでに「所与」(生命)として存在している。

それは我々にとっては、いわばア・プリオリである。

ここにおいては、もはや正当化はありえない。

 

参考  

「悪の起源」ライプニッツ哲学へのウィトゲンシュタイン的理解   黒崎宏 著

映像とレーダー(同時発生の宇宙)

目(眼)がレーダーであると思われていた時代があった。

電波のようなものを対象物に向けて発射し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を測る装置と解されていた時代である。

しかしその解釈はあながち間違いとは言えない。なぜならK・F・ブラウン氏が「ブラウン管」(映像)とレーダーの基礎を「通信分野」として同時展開していたからである。この両義的展開は大いにヒントになる。

つまり映像や色彩は、直接にはレーダーではないが、実は人間にとっては、それ以上に物を知るための「映像の修辞学」であったのだ。

 

キーワード:陰極線 真空 相転移 準安定領域(準安定状態)

 

参考

「レーダの基礎」探査レーダから合成開口レーダまで  大内和夫 編著

「映像の修辞学」  ロラン・バルト 著

公と民(コミュニケーションの正しいあり方)

いままで揺るがない「真実?」と思われていた事に揺さぶりをかけ、その「本当」を引き出し、「本質」がどこにあったのかを示すことが「公」(公にする)である。しかしそのあとは「民」の判断にゆだねる。そうすることにより、再び「考えられた」より良い社会が「共有」できる。簡単に善悪を示さない、そこまでが仕事である。バックナンバーにはまだまだ途上にあることが数多く示唆されている。