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史的唯物論再考

それは「実効支配」ではなく、単なる「意識」(願望)の叙述である場合が多い。

確かににエクリチュールの歴史によるものだが、それはエクリチュールゆえに脱中心化している。それゆえ学説に対しては、「唯物史観」よりも「イデオロギー分析」の方が有効である。

 

参考

「絶海の碩学」近世日朝外交史研究   池内敏 著

古代ローマの港町 オスティア・アンティカ研究の最前線」  坂口明 豊田浩志 編

アンデス文明」神殿から読み取る権力の世界    関雄二 編

政治家vs経営者

はじめての大舞台は、荷が重かろう。

しかし稽古不足を幕は待たない。

現実はシミュレーションできないことを知っておく必要がある。

 

声を上げる

「集会条例」から憲法草案の起草運動にかけて、自由民権運動は明治専制政府と闘う。勝てはしなかったが、展開し得た。闘ってかつ次の闘いに受け継がれたからである。「運動主体の形成」はこうして今も民主主義運動として継承されている。

世界文学とは帝国に属さない、歴史のトラウマを持ったそれぞれの文化が自ら投影した「他者性」を通じて、自分を認識するやり方である。何が他者性として排除されてきたのか、それを可視化する可能性を持つ。

他者化は主体によって行われるのではなく、「集合的に連鎖」しながら生じる「脱領域化」である。ゆえにそこには、「他者」を名乗ること、「他者」という呼称から逃げること、のネットワーク両義性がある。

しかし「他者=別の世界に生きる」という「創造」の「声」は、「言語」を超えて現在は認識されている。

 

参考

『ドイツの「移民文学」』他者を演じる文学テクスト    浜崎桂子 著

増補版「明治の革命」自由民権運動     三浦進 著

星条旗の聞こえない部屋」  リービ英雄 著

生活空間の復権

「無意識」に移るということこそ、ブレークスルーである。危機に対し人は、時間認識も空間認識も再構成するからだ。従来からの進化は、いつも無意識に突然来る。

大きな組織の信用から、目の前にある個人の生活の積み上げにより、素朴な信頼が生まれるアダム・スミス氏が構想した社会は、こうして無意識に実現する。そこには情報があまり必要ない密な情報社会が生まれる。遠い空想世界から、自己の手が届く周囲にこそ生活空間がある時代がはじまるのである。

 

キーワード:脱中心化

 

参考

金利と経済」高まるリスクと残された処方箋   翁邦雄 著

「ブロックチェーン革命」分散自律型社会の出現   野口悠紀雄 著

無意識と安全追及

「機械は飛ばない」と言われ続け、ついに機械が空を飛んだ「あの日」を忘れない。「ロボットが運転することなどあり得ない」と言われたが、それがまず「自動運転」から始まるとはだれも想像もしていなかった。

こうして実用は想像以上に未来を変えて行く。「安全な世界」という価値観が、「無意識」へと融合し、変わって行く。

 

キーワード:動物行動学 位相空間

 

参考

「ドライバーレス革命」自動運転車の普及で世界はどう変わるか? ホッド・リプソン メルバ・カーマン 著

「ドローンが拓く未来の空」飛行のしくみを知り安全に利用する  鈴木真二 著

執行役員に「労働法の保護」はあるのか?

執行役員に「経営者としての自覚」を求めるというが、これが単に主観的な「やる気」にすぎないのであれば、従業員への精神論や士気の高揚でも足りるかのような誤解を与えてしまうことになりかねない。

もちろん「やる気」も大切だが、ここで「経営者の自覚」とは、それ以上に経営者としての法的な責任も含めた経営者の責任を負うことを認識するのだが、経営者はビジネス・リスクを直接負いながらハイリスク・ハイリターンを狙わなければならないポジションにある。

ビジネスリスクを直接負わないローリスクな従業員は、「配分」こそ自分でコントロールはできないが、執行役員にはどこまで自由主義経済下で利益を伸ばせるかがその腕に直接かかっており、そこには労働者のような労働法の保護はない。

つまりビジネスコントロールが制御不能になるのはこの地点である。

 

キーワード:やる気とやり過ぎの差異 株主 労働法

 

参考

第五版「執行役員制度」運用のための理論と実務   浜辺陽一郎 著

文芸

人情本滑稽本という「中本」では、「人間の弱さの肯定」を実践可能にするために、「業の肯定」(思うがままに生きればいい)を主人公に設定する。

 

「彼女を語るとき、ひとは・・・・・」

なぜコンスタンツェは否定的なまなざしで受け止められてきたのか?彼女を「いかに語るか」という姿勢のなかには、それを「語っている当人の本性」が必ずやにじみ出ている。人間の嫉妬と羨望はわかり難い。

「これはわれわれの『敗北』かもしれない・・・・」

モーツァルトのことを知っている自分を「すばらしい」と捉える見かたが入ると、ひとは突然様子が変わってくる。それはそのまま、「自分は他人より優れている」というナルシスティックな「優越感」につながってゆく。「周囲の存在をこき下ろす」ことで、「悦に入る」と言う、偏狭な「ナショナリズム」のように。

 

文芸は、さまざまな逃れがたい「業」を肯定し、かつ人の「虚実」に真摯でありたいと思ってきた。そしてそれは、「自分を大きく見せようとする虚飾の現実」に対し、「フィクション」という「大きさ」で答えて来たのである。

 

参考

「中本研究」滑稽本人情本を捉える    鈴木圭一 著

『コンスタンツェ・モーツァルト』「悪妻」伝説の虚実   小宮正安 著