ありふれたものの変容(開発経済学の貧困問題)

もはや歴史ではない。

そういう時流かもしれない。民俗学や人類学も史実を提示するだけでナラティヴの創造を強く禁じている。なぜなら世の中は「視覚時代」であり、それはあまりに「多元化」し、歴史的に説明するのは困難であり、見たままであるとしか言いようのない世界だからである。そしてこれこそ科学の得意とする方法論の時代でもある。

ポスト・ヒストリカルの時代、それは「適切な類似物がある」という時代であるが、どこにでもあるが、どこにもないという時代の彷徨でもある。

この「ありふれたものの変容」に貧困問題は存在しないかのような「可能性と喜劇」もあるが、その本質は誤解されている。大したものでもない事・モノが、次の時代として塗り替えられようとするとき、そこには必ず権威としての汚職がいつもつきまとうからだ。これは進歩という虚偽の側面では見えにくく、特に開発経済学の側面でいつもあらわれる「権限委譲」という「貧困」問題である。汚職の継続性は「ありふれたものの変容」期に権威付けが起こり「権限委譲」という官民の双方で現れるという傾向性である。

 

参考

「芸術の終焉のあと」現代芸術と歴史の境界   アーサー・C・ダントリ― 著

「貧困と闘う知」教育、医療、金融、ガバナンス    エステル・デュフロ 著

同時性の意味

理性はなぜ進化の問題になるのか。それは理性の「起源」がその問題を彷彿させるからだ。松沢哲郎氏は「想像するちから」のなかでそのヒントをくれる。

人は容易に絶望する。しかし絶望すると同時に未来を想像する能力も持つ。絶望は誤解からくるが、想像はメタ認知からくる。それは架空の話でもあり、実際起こった話でもあるし、ありうる話でもある。生と死の認識論(起源論の定立)はこの想像力とメタ認知から生まれている。生まれて来なければよかった?、そして在ること無いこと浮かび来る(存在論の定立契機)。我々は賢すぎるが、愚かすぎる、なぜならそれが人間だからだ。

 

参考

「理性の起源」賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ    網谷祐一 著

「誤解の心理学」コミュニケーションのメタ認知     三宮真智子 著

話が合う(現前を超えて)

再び「明六社」へと降り立つ。誰もがいまは言葉を信じていないし、嘘をつくと言うが、言葉というものが意味を持たなくなったのでは決してない。

「合議」は「翻訳」に際して行われる「討論」である。この翻訳会議構想は「欧州」のコンプレックスに比して趣旨された。日本はこの「翻訳文字合議説」で日本語を今まで以上により豊かにした。

入力に対し「出力」がとてつもなく大きいのは対話論(プラトン)による。完璧な言葉が先にあってコミュニケーションが可能・成立するのではない。人が人を知りたいとき、それならただ聞くだけで対話はいらない。それこそ完璧な言語で十分だが、それでは文字通りで面白味はない。知る前から知っているようなものだ(現前)。

しかし対話という曖昧な方向性(揺れ)はいままで知らなかったお互いの間でとてつもなく大きい何かを達成感のように創造する。それは付加(生成)する絆であり愛情である。「話が合う」というのはそういう言語創造の場事である。

 

参考

偽史の政治学」新日本政治思想史     河野有理 著

「統辞理論の諸相」方法論序説     チョムスキー 著

「紋切型辞典」     ギュスターヴ・フローベール 著

 

人類学

「謝るとき、人は誰でも主人公。」

「謝罪の神様」は、「人に謝る」ことではなく、「自分に謝る」ことで、はじめて「成長」できることを教える。謝ることは社交や外交ではない。コミュニケーションという人に向けた、外に向けたノンバーバルな表現ではない。なぜなら文化人類学は、アメリカにはアメリカの、日本には日本の所作があり、その表現は万国共通ではなく、むしろ万国的に「差異」があることを「平等」に教え、認めている。ゆえに謝罪についての「所作」を外に向けるものと考えるなら、それは「嘘」という「移転」あるいは「演技」に近い。

謝罪、それは外に向けられるものではなく、「自分に謝罪」(自己を許し解放)することから真の反省と成長が生まれ、「人類学」が進むことを意味する。人の所為にしない、平等としての人の扱いを理解することは、「人に与えた主体」あるいは「奪われた主体」から、「自己の主体」を初めて取り戻す長い人生の道のりだからだ。

 

キーワード:内面に向けて自分にしかわからないことを理解し超越すること

 

 参考

映画「謝罪の王様」 宮藤官九郎 監督作品

ノイズ

レオナルド氏はネオプラトニズムの「流出」説に触れ、イエスの人性を、「多産」と「少数の精神的後継者」として、具現化して行く。

昔の生活はすべて静寂にあった。一九世紀となり、「機械の発明」により「ノイズ」は生まれた。新しい機械装置は「テクノロジー」として「多産」となり、ノイズは「エレクトリック」に後継されてゆく。

ジャック・アタリ氏は言う。

「社会の変容はより早くノイズのなかに刻み込まれ、社会のノイズはその想像や実体における葛藤に先行する」と。

 

参考

「美の顕現」ルネサンスの美術と思想   カルロ・デル・ブラーヴォ 著

「ノイズ/ミュージック」歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで   ポール・ヘガティ 著

スキル

ピケティ氏が大声をあげてくれたことで、本書のような声も必ず届くであろう。

スキルはもともと時間給の概念である。スキルばかりの職場では本給は上がらない。スキルをこなす事は仕事を移転・消化することで、仕事を創造することではないからだ。したがってスキル社会は時間を望む負債社会である。

 

参考

「負債論」貨幣と暴力の5000年  デヴィッド・グレーバー 著

仮説の検証

本書の目次だけで人は変われる。

日本では有能な経営者は朝早く起き、新聞数紙に目を通すと言われているが、毎朝自分で新聞くらい書いたり編集(社説)して見たりすれば、「壁」の意味は解る。

短時間で成果が出るものにすぐに飛びつくから、「時間=努力」という勘違いが生まれる。とにかく終わるという思考・発想力が工夫と成長につながり「残業=機会損失」を無くす。「残業=努力」では企業にとっても自己にとっても自由な伸びしろがない。

「効率=生産性」は思考や創造性に関わらないから、成果の質は確実に落ちて行き、結果として生産性が低くなる。成長という「うれしい副産物」がついてこない努力は「いい努力」ではない。

「頭の中を人の目にさらす」、つまり自分の思考プロセス(仮説の検証)を隠すことは、悪い努力である。

 

参考

「いい努力」マッキンゼーで25年にわたって膨大な仕事をしてわかった   山梨広一 著