トランス・サイエンスの時代

本書は秀逸である。

「解決には科学は必要だが、科学だけでは十分ではない新しい政策の時代」は、「ポスト・ノーマルサイエンス」と位置付けられる。

そこには、事実と価値が交錯して区別しにくい問題、たとえば環境問題やBSEなどの問題がある。科学に問うことはできるが、科学だけでは答えが出せない社会問題が強く意識される時代である。

貧困問題という「富の再分配問題」から、ウルリヒ・ベック氏が唱える「社会的リスクの再分配」が、それに当たる新たな問題である。

ファストサイエンス化する自然科学に対する、スローサイエンスとしての人文社会科学が再統合される必要に迫られている現代、情報倫理は再考される。

 

「たとえ人生は短く、しかも仕事でも思索でも喜びもないことに消費する時間ゆえに人生がさらに短くなるとしても、人文系の学者が自分たちの住む世界の自然法則や特性について全く無知になれるほど、また科学者が詩的情操と芸術的教養を欠いてしまうほど、われわれの精神はそんなに貧弱ではありません。」

                          ジョン・スチュアート・ミル

 

いま、自明性を問い直す批判的な思考力が、「棲み分け」をも超える必要がある。

 

参考

「科学をめざす君たちへ」変革と越境のための新たな教養

               国立研究開発法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 編

社会物理学

ジョン・ハーシェル氏は、「標本平均は平均に収束する」と考え、確率の動きを明確に社会に認知させた。統計力学は事実それに依存した。マックスウェル氏(気体分子運動論)もイリヤプリゴジン氏(散逸構造理論)もトーマス・クーン氏(パラダイムシフト論)も過去と未来が平均され、やがて有益な「現在のものになる・適正に収束する」(社会物理学になる)ことを知っていた。

確率が社会現象と未来を先取りし収束することを、ベイズ氏とラプラス氏はお互い独立に発見した。それゆえラプラス氏にとっての数理物理学の創始は、単に彼の主題を論理的に発展させるだけでなく、それは若い人から何を引き出すか(未来)、発表論文の選択、賞や地位の授与の人選など、意図的な政策を問題としたのである。

我々は統計的理解を、過去と未来の双方からの収束を含めた上で、原子力工学のように「偶然か必然か」という軸にはよらない。たとえば臨床医学は、患者に「恩恵」があるか、「リスク」があるかを問題とするからである。

カール・ポパー氏は成果主義に対し、文化として大切に考えることが重要であることを指摘する。

研究とは、「ある問題と出会って、恋におちること、結婚し死が分かつまでそれを幸せに生きることである」と、標本平均の収束を語るのである。

 

キーワード:大数法則

  

参考

「科学というプロフェッションの出現」ギリスピー科学史論選 チャールズ・C・ギリスピー 著

「科学をめざす君たちへ」変革と越境のための新たな教養

               国立研究開発法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 編

ソシアルキュー

子馬を分娩後親から離してヒトが育てると、たいてい扱いにくい困ったウマができるという。また、こうしたウマをほかのウマと一群にしても、容易に群れに溶け込めない。ウマはイヌとともに人類の最高の伴侶といわれることがあるが、子育ての部分だけはウマに任せないとうまくいかないらしい。

こうして4-5ヶ月齢まで母ウマにぴったり寄り添う子馬は、行動が母ウマに似ることが予想される。さらに離乳後の子馬群の各子馬の接近許容距離を比較すると、両者には有意な正の相関が認められる。ヒトの接近を許す受容性の高い母ウマの子馬は、同様に人の接近をより許容することが明らかになっている。

このことは、繁殖馬群の母ウマのサブグループは、その子馬にも影響することを示唆し、もし繁殖雌ウマ群が永続的なら、母ウマのサブグループも世代を超えて維持される可能性が暗示される。

イヌとウマは、「ソシアルキュー」が高いとされるが、ウマはこのように母ウマと子馬の関係から、ヒトとの相関がみられるという明らかな違いがあるのである。

 

参考

アニマルサイエンス①「ウマの動物学」第2版      近藤誠司 著

夏休み

本書は秀逸である。

 

柳田国男「先祖の話」

先祖神は個体化されない、いわば集合神である。ゆえに柳田氏によれば、正月と盆はもともと同じ先祖神の祭であったが、後に分化した。

丸山真男古事記

世界の創世神話は「つくる」「うむ」「なる」を三つの類とするが、日本神話は「うむ」要素が「なる」方向に偏ったところに特徴をもち、「なる」「つぐ」「いきほひ」というのが日本の歴史意識の「古層」の発想であると説く。そこには、責任をもって「つくる」態度が日本には育たないを憂う。

本居宣長紫文要領」

もののあわれ」は「正義の倫理」に対する「ケアの論理」である。知的・自律的な個人(内部)の立場にたつものでなく、他者(外部)との関係性の中で感情によって動く。そこでは、自己の自立性・完結性は否定され、他者との共感が不可避であることが示される。

 

「先見性」とは、創ろうと思えば作れることである。

 

参考

「日本の思想を読む」    末木文美士 著

通時性と共時性(家族と社会性)

「老境とは進化の所産であり、もっとも人間らしいヒトの属性の一つに老齢者をあげてよいということである。種の成員として生物学的な完成のあと、社会はさらに種社会の一員としての完成を個に要求する。したがって、真に老境の価値を支えるのはやはり社会だということになる」 伊谷純一郎

 

老齢は引退や時代に取り残された存在であろうか?先祖にもっとも近い存在であることから、その祭祀・習慣に通じているものである。たぶんそれは外部の観察者によっては対象化不可能な所与性を持った一つの傾向性であるからだ。

しかしそれは、「あってしかるべき発話における適切性の欠如」であってはならない。

たぶん「老いの力」の未来を左右するのは少子高齢化である。「世代スキップ世帯」は、高齢者の負担の増加という観点からのみ考えられがちが、人類学においては冗談関係と忌避関係と呼ばれるものがある。たぶん互隔世代(祖父母と孫の関係)間の親密な関係においてこそ躾がなされるという規範が、敵対なき、経済負担なき通時性と共時性の共存であろう。

 

先進国で、エリートは経済を管理(親)する術を学ぶが、他には何もしない。その教育は不十分である。「成長」は隔世遺伝するからである。老齢はブランドを製造するものではない。あらゆる生産に不可欠な中間的要素を技術的に最先端のものとして生産するのである。たとえ家族システムの起源が、「核家族」という逆説であったとしても、その共時性と通時性は、祖父母と孫という、直系(親と子)ではない「社会」(間接)をワンバウンドして成長したのである。

 

キーワード:冗談関係(祖父母と孫)と忌避関係(親と子) ラドクリフ=ブラウン マルセル・モース

 

参考

「アフリカの老人」老いの精度と力をめぐる民族誌    田川玄 慶田勝彦 花渕馨也 編

「トッド 自身を語る」   エマニュエル・トッド 著

観察の系譜学

開かれ・・・ブコウスキーの詩における動物

動物はインスピレーションをもたらす。動物は嘘のつきかたを知らない。動物は自然の力だ。テレビは五分も見ていれば気分が悪くなるが、動物は何時間でも見ていられる。そこにあるのは優雅さと栄光だけであり、あるべき生の姿そのものだ。

 

このように動物とヒトの断絶を確認し、それをそうと知りつつも乗り越える、いや、むしろ気づけば乗りこえられているということの繰り返し。

それは永遠に孤独でありながら、しかし同時にけっしてそうではないということを教えてくれる。

無防備とは、人間と動物の間にあるこの距離、自己の内部に生じる距離を「遠い間近さ」と「観察の系譜学」は教える。

ある人を無防備と感じるとき、わたしたちはその人をたとえ遠くにいても「間近」にいると感じることと同じだ。

また、自分が無防備だと感じる時、私たちは世界が「間近」に迫っていると感じる。そしてその間近は、非日常、距離感の乱れを感じさせるのである。

たぶんこの時ヒトは、孤高に自然を貫いていることを、直観しているのである。

 

参考

チャールズ・ブコウスキー」スタイルとしての無防備     坂根隆広 著